長崎大学リレー講座2011 第4回 村上陽一郎氏

リレー講座 第4回目の講師は、科学史、科学哲学、科学技術社会学の研究者である、村上陽一郎氏。
科学と技術の違い、科学の時代的変化と産業・行政との関わり、専門家・市民の科学に対するあり方などのお話でした。原発やGMO(遺伝子組み換え)にもふれた内容で、大変参考になりました。

<セミナーデータ>
タイトル:長崎大学リレー講座2011 東日本大震災後の日本を考える
 第4回「社会と科学・技術との新たな関係を問う」
講師:村上陽一郎氏(東洋英和女学院大学学長)
日時:2011年11月24日(木)18:00~19:30
場所:長崎大学
主催:長崎大学 共催:長崎新聞社
URL:http://www.nagasaki-u.ac.jp/relay-seminar/2011/

■村上陽一郎氏の講演内容

「科学」と「技術」の違い

日本では、「科学」と「技術」は、「科学技術」として一つの理念、コンセプトとして表現され、通用している。しかし、出発点、出自はかなり違うものであった。

「技術」は、人間社会の出発点からいろいろな形で存在している。
「社会技術」としては、徴税・税金、編暦すなわちカレンダーの編纂、医療、軍事、治水、駅逓すなわち交通・通信などがある。
「職人技術」としては、調理、道具製造・修理、石工、井戸掘りなど。
社会技術は、海外でも日本でも、世襲で受け継がれてきた。権力機構と編暦権は重なっている。
職人技術は、徒弟制度、ギルドとして縦に継承される。関係者以外には伝えない。
いずれも、専門家集団だ。

けれども、技術は、それを使う人、発注主、クライアントは、技術の外にいる。専門家集団ではない人たちだ。

一方、「科学」「サイエンス」は、19世紀のヨーロッパに初めて生まれた。
技術のなかにも、天文学や医学、弾道学のように、科学と呼んでもいいものはあったが、いま私たちが「科学」「サイエンス」と呼んでいるものとは違う。

ニュートンは「科学者」「サイエンティスト」ではなく「哲学者」「フィロソフィー」であった。
ニュートンはいろいろなことをしているが、当時の「哲学」「フィロソフィー」は、今と違って、幅広いものだった。

19世紀に入り、この状況は変わっていく。哲学が細かく分かれ、細分化する。この時代に日本がこれらの知識を取り入れた。日本語の「科学」は、いろいろな「科」に分かれた、この「科学」。

この時代の「科学」の特徴は、技術のように外部にクライアントがいなかったということ。
知識はすべて科学共同代の内部、学会員のあいだにだけ蓄積されていく。評価も利用も仲間内だけ。科学は現実世界とは接していなかった。

科学の変質

しかし、今の科学はこればかりではない。
科学の変質として、2つの出来事がある。
1つは、カロザースという、ハーバードでも教えた科学者が、デュポン社に雇用され、人造繊維「ナイロン」を開発したこと。
科学の知識が、産業界に使われた。すなわち、科学にクライアントが現われた。この場合のクライアントは「民間」だった。

もう1つが「マンハッタン計画」。「政府」がクライアントになり、科学者が総動員されて、核兵器を開発した。

そして、そのときに頭角を現わしたブッシュというMITの工学部長に、ルーズベルト大統領は、第二次世界大戦が終わっても、科学者を総動員して、次の3つの課題を解決する方法を考えるように言った。3つの課題とは、「雇用機会の増大」「疾病との戦い」「アメリカ国民の生活水準の向上」だ。
ルーズベルトの後を継いだトゥルーマンは、これを受けて、1950年に「NSF」「全米科学基金」を設立した。
これで、政府、行政が、産業を媒介として、科学を司り、一般の社会に生きる人々の生活を左右するようになった。

研究への支援は、「フィランソロフィー」ではなく「ギブ&テイク」だ。
「フィランソロフィー」は愛。オペラや芸術を支援するのは愛好であり、リターンを求めてはいない。しかし、科学に対してはリターンを求める。科学への支援は、政治的な意思決定を通じて行なわれる。たとえば、原子力発電所、GMO(遺伝子組み換え)がそうだ。

「安全・リスク」と「安心・不安」の違い

「安全・リスク」と「安心・不安」は実質的に違う。
「安全・リスク」は、起きる確率が何%というものだが、「安心・不安」は、主観的なものだ。
「99.9999%安全」と言われても「0.0001%のリスク」があり、それをどうとらえるかだ。
「明日の降水確率は30%」という言い方をするが、現実的には、雨が降るか降らないか、傘を持っていくか持っていかないかのどちらかだ。
「1000年に1度の津波」が、同じ年に2度起きる確率は、100万年に1度だが、今年はもう来ないとは言い切れない。
確率は、シングルイベント(単一事象)には意味がないのだ。

科学に対する市民及び専門家のあり方

科学の成果が社会に取り込まれるのに、専門家の判断だけで十分だろうか?

専門家の判断は、当然重んじられねばならないが、専門家はその領域のみの専門家である。過去の歴史、閉ざされたコミュニティで研究が行なわれてきた「たこつぼ」の中の専門家である。

だから、政治的、社会的イシューになったとき、専門家だけの判断でよいのかというのは、合理的な疑問と言ってよい。科学や技術のみでは、「確実性」に翳りが生じる。
まだ物事が進む前、一般的に普及する前に、いろいろな関係者、ステークホルダーが参加して、裁判員制度のように検討する場が必要だ。

原子力は、生活者が問う余地がなかった。
GMO(遺伝子組み換え)は、それができるだろうか?

専門家は、単に自分の専門領域に通じているだけでは不十分だ。社会システムに関する知識とコミュニケーション能力が求められる。
同時に、一般の人文社会系の人たちも、「科学」にきちんと接していく意識と機会をもたなければならない。
共通のプラットフォームで話をすることが必要だ。
そして、その間を取り持つ人材も必要だ。ADR(裁判外紛争処理)とメディエーター(仲介者)は、日本ではあまり成功していないが、理工系と人文社会系のギャップを埋めて、よい世界にしていく必要がある。

質疑応答:国家権力と科学

川嵜「科学が産業や国家権力と関わるようになって、正しい情報が開示されているのかという不安がある。たとえば、GMOはモンサント社に都合の悪い情報は隠蔽しているという話もある。こういう不安に対して市民および専門家はどうしていけばよいのか?」

村上氏「私たち市民が素養をもち、知識をもつことだ。情報の根拠を理解できるようにする。市民は科学者を性善説でとらえ、コミュニケーションをとる。専門家は、よりきちんと伝えるようにすることが大事だ」

(以上)

          ◆ ◆ ◆

科学が産業や国家に利用されるようになり、「一般の社会に生きる人々の生活を左右するようになっ」ていますが、その影響力は世界に及んでいます。質疑応答で質問したモンサント社も、アメリカに本社がある多国籍企業です。

科学が権力と結びつき、利用される場合、市民はきちんとその動きを見ていなければなりません。見るのは「科学の利用」に限りませんが、科学は、人類・世界を即座に滅ぼせるほどの威力をもっており、極めて重要です。

その情報収集、意見交換に、インターネットという手段は、大変役に立ちます。しかし、溢れる情報から正しい情報を選択するには、やはり「素養と知識」及び専門家のサポートが必要です。国境を超えた専門家と市民の相互乗り入れ、協力が不可欠だと感じます。

ところで、「理工系」と「人文社会系」というのは、よく相対して使われます。この講演でも、「理工系」と「人文社会系」のギャップということが言われていました。
けれども、正直、私はこの違い、ギャップがよくわかりません。これらは便宜的な分類で、それ以上の意味があるとは思えません。
私は、経済学部だったので「人文社会系」ですが、「理工系」の科目も好きでしたし、大学入試の選択科目も社会ではなく数学で受けています。

大学を卒業してからも、どちらに区分されるのかわからない知識、情報を得ていますが、多くの人が、同じだと思います。
誰でも専門外のことは、専門ほど詳しくはありません。専門のことは、より多く学び接しているから詳しいというだけです。だから、専門外のことでも、求める知識や情報に接し学べば詳しくなり、判断力もつくのではないでしょうか。